「タナカシゲオ展 李朝の心」ありがとうございました

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タナカシゲオ展 李朝の心」は本日終了しました。会期中にご来店下さいました方、オンラインストアを通じてお選び下さいました方、皆様に厚くお礼申し上げます。

陶芸には「写し」という方法があり、古典に倣うことは真似ではなく、むしろ奨励されることです。他分野では独自の表現が尊重されますから、陶芸の「写し」と「真似」の境目は、どの程度が許容範囲なのか度々議論されることです。100年以上も前の器に倣うことと、当世の流行りをコピーすることとはもちろん意味は異なります。

書道、華道、茶道など「道」がつく伝統芸能では、その作法に倣うことで精神性を踏襲することが即ち学びでもありますから、「写し」という言葉よりも「習う」=反復するという方が相応しいかもしれません。あるいは、バッハのゴルトベルク変奏曲をグレングールドやアンドラーシュ・シフがどう演奏するかで、その表現が大きく変わってくるように、古典の楽譜を使いながらもその奏で方次第で、大いに創造性を表すことが出来ることも事実です。

話は戻りますが、李氏朝鮮時代の器に倣う陶芸は多くいます。その写し方は様々であり、材料や技巧を忠実に再現しようとする人もいれば、日常食器の中にそのエッセンスのみを取り入れるライトな選択肢もあります。古典から何を学び、その頂をどう目指すかはそれぞれの考え方があります。例えば国宝の曜変天目のようにこの世に二つと無いものを「再現」するための「写し」と、李朝白磁、それも後期ものは今でも市場に多く出回っており、質をあまり問わなければ入手も比較的容易いですから、現代の「写し」の李朝をどう解釈するかは受け手次第でしょう。

古典の「写し」は衛生的で再生産も出来、現代の食卓で使い易いという合理性がありますが、一方でその作り手の「意識」に目を向けるかも大切なように思います。タナカさんのように内面性を重視する作家の李朝は、やはり器の佇まいそのものが謙虚であるように思います。今を生きるものとして作家への共感という側面も大きく影響するでしょう。

さて9月から渡辺隆之さん、東亨さん、芳賀龍一さんと続いた根本的な価値を再構築しようとする流れがあり、一方で今回のタナカシゲオさんはじめ、これから始まる11月6日~石黒剛一郎さん(青磁)、11月20日~大平新五さん(古信楽)など古典を現代にどう解釈するかという流れがあります。個別の器を選ぶうえでは意味がないかもしれませんが、弊店なりの時代認識をもって編成した意図もわずかに感じて頂ければと思っております。

※オンラインストアは本日10/31 23時までご利用頂けます。
https://utsuwanoteshop.stores.jp/


by sora_hikari | 2021-10-31 17:03 | タナカシゲオ展2021

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