2016年 07月 13日
「 佃 眞吾展 我谷木工・林竜人さんを偲ぶ 」 林竜人さんの仕事
「 佃 眞吾展 ~我谷木工・林竜人さんを偲ぶ~ 」(~7/18日(月・祝)迄)を開催中です。
本展は、佃さんから教えて頂いた故・林竜人(たつんど)さんのお仕事を紹介したい思いから始まりました。
林さんは明治末期に一度立ち消えた我谷盆の復興にご尽力された木工藝家です。昭和7年・石川県大聖寺生れ。我谷村にも近い地域です。元々、彫刻家を志していましたが、昭和30年代に黒田辰秋さん(後の人間国宝)からの請願もあって、我谷盆の見聞を広め、現地を調査し、同志を糾合し、復興の原動力となりました。
ご本名は林竜代さん。その後、作家として「吾太」を名乗った時期もある程、我谷木工を自認する作り手でした。今回展示用にお借りした林さんの作品を見ると、いずれも一木を刳っており、我谷木器に通じると共に、とても彫刻的なアプローチを感じます。また当時の展覧会広告に掲載された作品は、威風堂々とした存在感で、我谷木器を祖形にしながら、徐々に独自の作品へ昇華させたことが分かります。我谷木器の範囲を超えた櫃、膳、飾り台、そして晩年は書刻(木彫看板)も手掛けておられたそうです。
ご生前は弟子をとらず、いわば孤高の作家。自ら民藝作家を名乗ることはなく、あくまでいち木工藝家として自身の造りを目指していたそうです。想像するに、昭和も40年代に入ると思想的な民藝運動も主旨が薄まり、商業的ムードに乗じたスタイル化した民芸が盛んになった頃ではないかと思われます。林竜人さんはそういう状況から距離をとり、創作者としての誇りを保ったのではないでしょうか。
時は平成、いわゆる生活工芸全盛の今、我谷盆という外形的な造形の共通性だけでなく、そういう精神性に於いても、佃眞吾さんと林竜人さんには、奇しくも世代を超えた意識の重なりを感じるのです。
晩年、肺を患い死期を悟った竜人さんは、ご自身の墓石の意匠にも拘ったとご家族からお聞きしました。びしゃん仕上げの墓石の下、今は金沢の風光明媚な地に眠る竜人さんです。時代を超えて「残る仕事」を成し遂げた木工藝家。佃さんも同じ作り手として憧れの人なのです。
以下は、林竜人さんが昭和40年代の個展に寄せた言葉です。
わがた木器の伝承
加賀の国の
雪深い谷間を流るる川沿いに
四百年の昔 人が住み
我谷村がはじまった
生活の中に生れ来た
栗の木つくりの鉢皿が
いつしか町びとの暮らしの
中にも愛され 村びとは
永い冬を作りつづけたが
その伝えは文明の流れに消え
村も水底となった
力強く生き抜いた
器に残るノミのあとは
見る人の心を打つ
今はなき村びとの心を心にうけ
新たな木器のかずかずを
今日の暮らしに仕えんと
ここに作りつづける

林竜人さんの展覧会広告と十二角盆

林竜人さんの作品陳列

十二角刳り抜き盆 幅483mm 奥行483mm 高さ85mm

刳り抜き小皿 幅120mm 奥行120mm 高さ45mm

刳り抜き皿 幅170mm 奥行150mm 高さ57mm

十角小皿 幅137mm 奥行137mm 高さ20mm

角盆 幅223mm 奥行223mm 高さ30mm

長方皿 幅260mm 奥行70mm 高さ30mm

刳り抜き皿 幅140mm 奥行130mm 高さ35mm

刳り抜き長方皿 幅270mm 奥行155mm 高さ40mm

刳り抜き小皿 幅163mm 奥行155mm 高さ28mm

朱塗り皿 幅15mm 奥行145mm 高さ23mm

刳り抜き鉢 幅253mm 奥行253mm 高さ70mm

長方皿 幅260mm 奥行70mm 高さ30mm

刳り抜き長方皿 幅270mm 奥行155mm 高さ40mm

十角小皿 幅137mm 奥行137mm 高さ20mm

朱塗梅形盆 幅400mm 奥行400mm 高さ25mm

朱塗縁黒盆 幅425mm 奥行325mm 高さ54mm

朱塗縁盆 幅370mm 奥行330mm 高さ33mm

朱塗扇形盆 幅350mm 奥行280mm 高さ25mm

栗抜き大盆 幅585mm 奥行480mm 高さ60mm

昭和40年代の展示会広告

昭和40年代の展示会広告

昭和40年代の展示会広告

昭和40年代の展示会広告

昭和40年代の展示会広告

昭和40年代の展示会広告

昭和40年代の展示会広告

昭和40年代の展示会広告

昭和40年代の展示会広告

昭和40年代の展示会広告
本展は、佃さんから教えて頂いた故・林竜人(たつんど)さんのお仕事を紹介したい思いから始まりました。
林さんは明治末期に一度立ち消えた我谷盆の復興にご尽力された木工藝家です。昭和7年・石川県大聖寺生れ。我谷村にも近い地域です。元々、彫刻家を志していましたが、昭和30年代に黒田辰秋さん(後の人間国宝)からの請願もあって、我谷盆の見聞を広め、現地を調査し、同志を糾合し、復興の原動力となりました。
ご本名は林竜代さん。その後、作家として「吾太」を名乗った時期もある程、我谷木工を自認する作り手でした。今回展示用にお借りした林さんの作品を見ると、いずれも一木を刳っており、我谷木器に通じると共に、とても彫刻的なアプローチを感じます。また当時の展覧会広告に掲載された作品は、威風堂々とした存在感で、我谷木器を祖形にしながら、徐々に独自の作品へ昇華させたことが分かります。我谷木器の範囲を超えた櫃、膳、飾り台、そして晩年は書刻(木彫看板)も手掛けておられたそうです。
ご生前は弟子をとらず、いわば孤高の作家。自ら民藝作家を名乗ることはなく、あくまでいち木工藝家として自身の造りを目指していたそうです。想像するに、昭和も40年代に入ると思想的な民藝運動も主旨が薄まり、商業的ムードに乗じたスタイル化した民芸が盛んになった頃ではないかと思われます。林竜人さんはそういう状況から距離をとり、創作者としての誇りを保ったのではないでしょうか。
時は平成、いわゆる生活工芸全盛の今、我谷盆という外形的な造形の共通性だけでなく、そういう精神性に於いても、佃眞吾さんと林竜人さんには、奇しくも世代を超えた意識の重なりを感じるのです。
晩年、肺を患い死期を悟った竜人さんは、ご自身の墓石の意匠にも拘ったとご家族からお聞きしました。びしゃん仕上げの墓石の下、今は金沢の風光明媚な地に眠る竜人さんです。時代を超えて「残る仕事」を成し遂げた木工藝家。佃さんも同じ作り手として憧れの人なのです。
以下は、林竜人さんが昭和40年代の個展に寄せた言葉です。
わがた木器の伝承
加賀の国の
雪深い谷間を流るる川沿いに
四百年の昔 人が住み
我谷村がはじまった
生活の中に生れ来た
栗の木つくりの鉢皿が
いつしか町びとの暮らしの
中にも愛され 村びとは
永い冬を作りつづけたが
その伝えは文明の流れに消え
村も水底となった
力強く生き抜いた
器に残るノミのあとは
見る人の心を打つ
今はなき村びとの心を心にうけ
新たな木器のかずかずを
今日の暮らしに仕えんと
ここに作りつづける































佃 眞吾展 ~我谷木工・林竜人さんを偲ぶ~
2016年7月9日(土)~18日(月) 会期中無休
営業時間 11時~18時
ギャラリーうつわノート(埼玉県川越市) 地図
画像クリックで拡大
佃 眞吾(つくだ・しんご) 経歴
1967年 滋賀県長浜市生まれ
1990年 京都にて家具職人として働く
1992年 職人の傍ら「黒田乾吉木工塾」に通い木漆一貫仕事を学ぶ
1995年 京都 井口木工所にて家具・指物職人として働く
2004年 京都市梅ヶ畑にて独立
2015年 現在、同地にて制作。国画会工芸部会員
林 竜人(はやし・たつんど) 経歴
昭和七年生れ 平成三年没
石川県大聖寺出身
by sora_hikari | 2016-07-13 19:17 | 佃眞吾展