器考:生活工芸

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最近よく聞く「生活工芸」なる言葉。

美術工芸でもなく、茶陶でもなく、精神論的には民芸に近かろうけど、それも違う。かといってクラフトだと従来のライトなイメージに成り易い。ということで、ここ十数年来の今の暮らしにフォーカスされた工芸品を言い表そうというのが「生活工芸」ということだろうか。

それはじじ臭いヤキモノではなく、えらそーな茶碗ではなく、かび臭い古民具でもない。かといってポップなデザインものでもない。多くは思想的反逆ではなく、受容的態度の洗練された手造りの生活道具の一群である。男子目線よりは女子目線。より生活に近い、普段使いのものを対象とする。

使って楽しむ側からすれば、わざわざ言葉として定義づける必要もなかろうが、一方で記号にしなければ意味を理解しないアカデミックな領域の人々もいるのだろう。そういう役割として「生活工芸」と言語化する意義は大いにある。

かつてはある種の権威や閉鎖性に対するカウンターであったであろうが、今やそちらの方がメインストリームの「現象」である。なぜなら、昔のように工芸界のややこしい参入障壁もなければ、少しの技量とセンスが伴えば、開かれたマーケット(クラフトフェアとか)において、「作家」なるデビューも比較的安易である。今や、暮らしの道具が全盛の時代となった。いわば平成元禄なのだ。多分。

使う側には、誠にありがたい時代ではなかろうか。センスよく、使い勝手のよい生活道具を、かなり安価に手にすることができる。作り手も素直で、感じがよい人ばかりである。暮らしもつつましく、ぎりぎりの価格設定で提供することを苦にしない。

これは時代の「現象」なのか。俯瞰してみれば、枯渇する資源や経済的な閉塞感に対する時代のバランサーのように思う。作る側と使う側の距離の近さ。生産と消費の均衡。その範囲で満たされる精神世界。今の時代、大きな思想よりも、幸せの答えは、身近な足元にあるのだ。

しかし、一旦記号化された言葉は、やがて形骸化することも事実である。表層的な「生活工芸」なるものが蔓延すれば、その生成期の意味は薄まり、単なるスタイルになり兼ねない。そう、流行った時点でブームは終わっているように、次の模索の旅がはじまるのである。今のように開かれた工芸の時代にあっても、やはり階層化されるし、特定のスノッブな一群も存在する。そして、そこに近づきたい人ばかりが溢れている。

総論賛成。各論異議あり。少しづつ、次に向かって振り子は動いている。今が弥生のような実用向きの時代だとしたら、これからは呪術的な縄文の精神性も求められるのかもしれない。「生活工芸」に感謝しつつ、次の何かを見てみたい今日この頃なのです。

※写真は、岡モータースのブレッドさん。本文とは全く関係ありません。

by sora_hikari | 2014-08-19 18:59 | 器考

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